国産デニム生地のルーツ ~ 井原と備中小倉織
公開日: | 最終更新日: 2018/06/06 デニム・ジーンズに関する基礎知識
日本のジーンズ生産に関する本を読んでいると、デニム生地に関して、岡山県の井原(いばら)地区の話がよく出てきます。
井原といえばいまや世界的に有名なデニム生地の産地ですが、文献に登場するのは明治時代から1970年代ごろまで。
中でも国産デニムのルーツともいえる生地が、明治時代から井原で作られていたという話が気になるところで。情報が断片的でやや混沌としているので、わたしの視点で整理したり検証したりしつつ、まとめてみました。
もくじ
井原は江戸時代から綿の厚地織物の産地だった。
井原地方に綿作り(綿花栽培)が伝わったのは戦国時代末期ごろ。
江戸時代になり藍が伝わると、藍の栽培から染料を作り綿糸を染色し木綿布に織ったものが、井原の特産品として全国に広がっていきます。この井原名産の綿布は厚地だったそう(繊維王国おかやま今昔 p.101~)。
井原では、江戸時代から藍染め・厚地の綿布が作られていたんですね。
明治34年(1901年)、井原で小倉という種類の布地の生産がはじまります。
小倉(小倉織)とは、綿織物の一種。江戸時代初期、福岡県の小倉で作られはじめたことからこの名前がついています。
井原で作られる小倉織は「備中小倉織(備中小倉)」と呼ばれ、海外にも盛んに輸出されました。
この備中小倉が、デニムと似た特徴をもつこと、また、その生産で培われた技術が現在のデニム生産につながる礎となったのではないかということから、国産デニムのルーツともいわれています。
さてでは、備中小倉織ってどんな生地なのでしょう。
備中小倉織とは? ブルーデニムとの共通点
小倉織(こくらおり)は、縦うね組織の綿織物の一種。経糸1本に対し、緯糸2~3本を引きそろえて平織または綾織などにしたもので、丈夫で滑らかな生地。江戸時代には、武士の帯や袴の生地として使われていました。
井原で備中小倉が作られはじめるのは、明治時代に入ってから。学生服や作業着向けに人気だったほか、大正元年(1912年)からは輸出もはじまり、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、中南米諸国、アジア諸国、欧州各国など、多くの国に輸出されたそう。
備中小倉とデニムの共通点
- 表が紺、裏が白の厚地の綿織物
- 藍で染められている(デニムはインディゴ、備中小倉織は天然藍)
- 作業着に向く丈夫な生地である
「井原では戦前からデニム生地が作られていた」説?!
いくつかの本で、井原では第二次世界大戦「前」から「デニム」が作られていたとされています。
現在ジーンズの素材とされているデニム地は、戦前すでに井原地区で織られており、主にアフリカ、オーストラリアなどに輸出された。現地では遊牧民に重宝がられ、藍色がガラガラヘビや毒虫よけになったといわれている。
せとうち産業風土記(p.43)より
1900年代初頭 井原(岡山県備中井原市)で布団や着物衣が黒小倉織りで作られる。ブルーデニムの生産地(明37~)
Book of Denim(p.112)より
ただし、実際にアメリカ式の本格的なデニム生地(※)が日本で作られるようになるのは1970年代に入ってからのこと。(※ここでいう「アメリカ式の本格的なデニム生地」とは、重量が14オンス程度あり、経糸に中白の(芯が染まってない)糸を使っているもの。)
1970年ごろ、本格的なデニム生地を作るにあたっては、糸の芯を染め残す技術が日本にはなかったためその方法を確立するまでに相当な苦労があったといいます。また、1960年代半ば、アメリカの本式のデニム生地が入ってきたときには、その厚みの生地を縫うことができるミシンが日本にはなく様々な試行錯誤があったそう。
つまり、明治時代にデニム生地がもし作られていたとすれば、他の衣料用生地と比べれば厚地ではあってもデニムとしてはかなり軽量で、生地に使われる経糸も中白ではない(糸の芯まで青く染まった)ものであっただろうと推察されます。
また、アメリカのデニム衣料が日本で普及しはじめるのは、戦後、駐留米軍の払下げ品がアメ横などから出回りはじめてからのことなので、戦前に「デニム」という言葉や概念が日本にあったかという点にも疑問が。そう考えると、似た生地をデニムと称したり、デニムに似せて生地を作ったりといったこともなかったのではないかと思うのです。
本式のデニムとは異なり、おそらくデニムという名称もついてなかったであろうということ、また、生産開始や輸出が盛んだった時期に関する記述等から考えても、これらの文献で「デニム」と言われている明治期から井原で作られていた生地は「備中小倉」のことだろう、と思われます。
(それらの本がどういった情報源・根拠にもとづいてそう書いているのか辿ることができればもっとしっかり検証できるのですが、いずれも情報源が書かれていなかったので検証はここまで。)
結論としては、
文面どおり戦前から井原でデニム生地が作られていたかというと、(おそらく)そうではない。
井原で明治時代から作られていた(デニムとよく似た特徴をもつ)「備中小倉」のことを指して「現在でいうデニムに相当する」といった意味合いを込めつついろいろ省略した結果「デニム」という表現になったのかなぁと推測されます。
ちなみに、
本格的なデニム生地が日本で作られはじめるのは先に述べたとおり1970年代に入ってからのことですが、中白でない糸を使った軽量デニムは、1960年頃から井原で作られていたようです。
井原の備中小倉織・デニム生地生産に関する歴史年表
- 1901(明治34)年
- 備中小倉の生産開始。
- 1912(大正元)年
- 備中小倉の輸出開始。
輸出先は、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、中南米諸国、アジア諸国、欧州各国など。藍色がガラガラヘビや毒虫よけになると重宝され、第二次世界大戦期に輸出がストップするまで順調に成長。 - 1945~1952年ごろ
- GHQが穿いていたジーンズを参考に「マンボーズボン」を製造し、GHQ向けに販売。
- 1960(昭和35)年ごろ
- 井原でデニム生地とジーンズの生産がはじまる。
- 1973(昭和48)年
- 井原のジーンズ生産 年間1500万本(国内生産の約70%)。
このころ井原には縫製工場がかなり多かった。最も大きかったブランドは「バイスラー(VICERER)」。
まとめ
今日では、海外からの評価も高い日本のデニム生地。井原はその代表的な産地です。
井原では、江戸時代から藍染めの綿糸を使った厚地織物が作られており、明治時代には、国産デニムのルーツともいわれる「備中小倉」が作られはじめます。こういった背景や技術がいまにつながっているんですね。
参考資料
- 繊維王国おかやま今昔-綿花・学生服そしてジーンズ(岡山文庫、猪木正実、日本文教出版岡山、2013年、p.106~)
- D#mag Vol.1(井原被服協同組合、2012年)
- ヒストリー 日本のジーンズ(日本繊維新聞社・著、日本繊維新聞社、2006年、p.84)
- Book of Denim-デニム&ジーンズグラフティ(アーバン・コミュニケーションズ、1991年、p.112~)
- せとうち産業風土記(山陽教養シリーズ、山陽新聞社・編、山陽新聞社、1977年、p.43)
- テキスタイル用語辞典(成田典子、テキスタイル・ツリー、2012年、p.70)
- コトバンク
- 井原被服協同組合「D# THE STORE」での聞き取り(2014年6月)
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